2005年8月9日、仙台宮城フルキャストスタジアムの巨人-横浜戦で、
佐々木が地元での引退登板をした。
起用方法は親友清原へのワンポイントだった。
このペナントレース真っ最中の引退登板にはファンもマスコミも否定的な
意見が少なくなかった。横浜ファンからすれば、まだ優勝の可能性も
残されているのに佐々木のわがままを受け入れるのか、ということだ。
相手の巨人から見ても、最下位転落の危機の時に自分(巨人)の
主催試合で相手(横浜)の一投手の引退につきあっている
場合ではないというのが本音だろう。
自分も否定的な立場だった。いくら98年優勝の最大の功労者とはいえ、
推定2年13億の超大型不良債権のわがままぶりに辟易していたからだ。
・・・登板を見るまではそう思っていた・・・
2回無死一塁、清原に打順が回ったところでピッチャー佐々木のコール。
球場は割れんばかりの「ササキ!ササキ!」の大歓声。
投球練習はカメラのフラッシュの嵐。
まるで98年の最終回を見ているようだった。
そして親友清原との最後の対戦。
直球を3球続け、ボール、ストライク、ストライクでカウントは1-2となる。
球速は140キロにも満たない。全盛期、150キロ超でバットに
かすらせもしなかったあのころの球威は、もうない・・・。
あの「大魔神」の背中が小さく見えた。少し涙ぐんだ。
バッターボックスの清原も、もう二度とない親友との
対戦に涙を浮かべていた。
そして最後の1球。伝家の宝刀フォークボール。
外角高めからワンバウンドすれすれにまで落ちた。
球速こそ120キロ後半だったが、落差は「大魔神のフォーク」だった。
そして清原がフルスイングしたバットは空を切った・・・。
わざと空振りしたのかもしれないし、
涙でボールが見えなかったのかもしれない。
でもそんなことはどうでもいいと思った。
もう二度と大魔神の本気の投球は見られない。
それだけは事実だ。公式戦での登板も、シーズン終盤に
行われる横浜スタジアムでの正式な引退登板が最後になるだろう。
優勝という「夢」を実現してくれた大魔神佐々木、本当にお疲れ様でした。